alpinum’s blog

根暗の掃き溜め

なにも出来ない自分の手慰み

今日は風が強い日だった。10分くらいしか外に出てないけれど。暖かくなってきたからとパーカー1枚で買い物に行ったらえらい目にあった。

ブログを作って最初の記事って何を書けば良いかわからない。ちょっと気取って天気のことを書いてみたけれど、職場のあまり仲良くない人からの挨拶のようで面白味もない。せっかくだから自分のこれまでの経緯を語るのが良いだろうか。

こうしてパソコンに向かって独り言を垂れ流そうと思ったのは、ひとえに消化しきれない自己愛をどうにかしたいと思ったからだ。自分には誇れるものがない。なにかしらの光る能力も、我慢強さも、努力を重ねる誠実さもない。こうやってブログを書き始めるのも何回目だろう。継続は力なりと過去の人は言ったけれど、たしかにその通りだ。続けることは本当に難しい。このブログだってこの記事だけで終わるかもしれないし、正直なところ人に読んでもらうほど面白い文章を書けるだけの引き出しがあるわけでもない。だけど文章を書いて自分の気持ちを己の腹の中に落とし込みたくなってしまった。そしてそれを誰かに知って、認めてもらいたかった。

だって気持ちの整理をつけるだけなら手元の綺麗なノートに書き連ねるだけでも十分なのに、わざわざブログにしてまで世界に向けて公開するのだ。自己顕示欲がなければそんなことをする理由がない。無いものねだりをする自分を身近な人に晒すのは躊躇われる。でも自分の外向きの顔を知らない人になら見られても恥ずかしくない。だからこそ遠くのどこかにいる誰かには自分の内面を知って認めて欲しい。私は特定の宗教への信仰心はないが、これはある種の告解に近いものかもしれない。

こうして自分の心の中を文章に書き連ねるのはとても気持ちが良い。胸の真ん中に渦巻くモヤが指先から溶け出していくようで、文字数を重ねるごとに憂鬱さが取り払われるのだ。たぶんこれは居酒屋で友人に愚痴をこぼすときの感覚に似ている。実際の自分は人に対して心の内を全部吐き出せるわけでもないから、匿名の仮面をかぶることのできるネットで文字を泳がすことにしているわけだけど。

別に信頼できる友人がいないわけではない。強がりに見えるかもしれないけれど、大切な友人や親身になってくれる恋人もいる。だけどひとりで自分自身に向き合うのが一番のように思えるのだ。きっと特別なことなんかじゃない。この記事の向こう側にいる誰かも同じだろう。

この自分の性質がいつから始まったものかはわからない。遺伝的なものかもしれないし、環境的なものなのかもしれない。遺伝であれば自分ではどうしようもできないが、環境だとしたらそれは確実に中学時代に形成されたものだと断言しよう。公立中学校というのは世間一般でも魔境だと揶揄されることが多々あるが、自分が通っていた中学校も例に漏れずそうだった。比較的良識のある人間が多い環境であったとは思うものの、それでも青年期の未成熟な正直さがゆえの言葉や行動に傷つけられる立場だった。この文章をここまで読めば言わずともわかると思うが、陽キャ陰キャかで言えば圧倒的に陰キャだし根暗だ。そして顔も可愛くない。不登校になって追い詰められるほどいじめられるということは無かったものの、スクールカーストで言えば下の下もいいとこ。常に誰かが自分を見て馬鹿にしているように思えていたし、自分に向けられた褒め言葉は直接貶すよりも傷つくからだと知っていた。

そんな自分が外に向けて怒りの言葉を叫ぶことなんてできるはずもなく、鬱屈した気持ちを心の中でため込むようになった。心の中にため込むためには言葉がいる。わけのわからない負の感情を乱雑にストックするよりも、自分の中で折り合いをつけた方がスッキリするからだ。ざっくり例えるなら、箪笥へ洗濯物を適当に投げ込むよりも、ちゃんと畳んで入れてあげた方がたくさん入るという理屈である。

幸いにもその頃の私は読書が趣味だった。本の虫だった両親の影響である。おかげで心の中にため込むための言葉の引き出しはそれなりにあった。その頃に読んだ本の内容はあまり覚えてないけれど、たぶんこうして書き連ねている文章にその名残があるのだと自分は思っている。こうやって思いを昇華する手段を得たわけだから悪いことでは無かったし、自分の糧にはなったと思う一方で、どうにもできない自己愛はこの手段によって育てられてしまったのかもしれないと感じることがたまにある。

良い外面で接していながら内心では唾を吐く。自分ではしているつもりがないのだけれど、振り返れば学生時代の自分は他人をどこか見下していたように感じる。なんにもできないのにね。高校生なんて今の自分が最強だと疑わない節があると思うから、自分に限った話ではないのかもしれない。

苦汁を舐めた中学時代。悔しさをバネにして高校にはそれなりに良いところへ入学することができた。優秀な友人や先輩に恵まれ、彼らのことを本当に尊敬していた。一方で尊敬できないと思う人へは内心で冷めた目をしていたと思う。なにもできない自分を認められないまま、優秀な周りの人間と自分を同一視してしまい、結果として根拠のない自己愛だけが育った。大学はそんな自己愛が邪魔をしてろくに友人も作らなかった。別に友達100人作りたいという性格でもないから、信頼できる人がひとりふたりいれば良い。ただ単純に、人脈というものを大切にしていたらどうなっていたかなとたまに夢想することがあるくらいだ。

いまの自分は日本のどこかにある会社でひいこら働くいち社員にすぎない。社会にでたばかりで大したことのできない無力さと、今まで自分が根拠なく信じていた理想像とのギャップに苦しんでいる。まともに努力もせずになんとなくで学生時代を乗り切ったせいだろう。大人になってからの苦労は学生時代に感じるものより苦しいだろうか、どうだろうか。そもそもいまの自分は人間が社会的に区切った分類の中では大人なだけで、本当に大人になれているかどうかすらも怪しいけれどそれはいったん置いておこう。わからないけれどせめていまの自分の苦しさがいつかの自分の糧になってほしい。そしてこの苦しみを適当に放置しないでちゃんと自分の中に落とし込んで未来に繋げよう。自分自身の種になるし、きっと自分みたいな誰かの参考にもなったら嬉しいと思う。

 

本当はこんな自戒じみた言葉を連ねる気はなかったのだけど、気付いたら妙なことを書き綴ってしまった。実を言うとかつてtwitterで見かけた呟きにはっとしてブログを書こうと思っただけなのだ。なんてことのない生活の記録も後世の生活・風俗的資料になるかもしれないという言葉。文学的素養のない自分でも何かしら残るものを書けるのではないかという淡い期待をしてしまった。心情を書き綴るのは好きだ。だから最近では二次創作をしたりして欲求を満たしていたのだけど、単純に妄想のネタが尽きた。だから次は自分を切り売りしてみようと思った次第だ。

次は何を書こうか。こうして記事を見返すと意外にネタになりそうなものはある。全ての原因を顔に帰結させる自分のクソみたいな性根や、これまで読んだ本で自分の思想の元になった部分。まああとは単純に生活をそれっぽく書くのもいいだろう。趣味のない自分の休日は本当に暇だから、土日祝は何かしらの文章が書けたらいいな。続けばの話だけど。