alpinum’s blog

根暗の掃き溜め

仕事の話(反省会)

社会に出ておよそ1年。私はよく上司に怒られる。指摘されたことをちゃんと飲み込みきれてないから何度も怒らせてしまっていると思うとむしろ申し訳無くなってくる。自分が穀潰しすぎて辛い。

もちろん言われたことは心に響いているしメモもちゃんと取る。だけど取るメモの量が多すぎて埋もれてしまうのだ。とりあえず振り返りの手段にブログを選んだ次第なのだけれど、どうすれば良いのかメモマスターがいたら教えて欲しい。

 

よく言われること1

まず落ち着いてタスクを整理する

何をいつまでに誰がやらなきゃいけないのか。当然であるけど私は出来ていないから怒られている。業務の指示がでたら飛びつくように仕事をするのがいけない。落ち着け。

 

よく言われること2

仕事の目的を理解する

当然であるけどこれもできていないから怒られる。タスクを整理する話にも通ずるけれど、自分が求められている業務には目的がある。目的を達成するために必要な手段はきちんと比較検討するべきだし、目的を理解してないと変な方向に道が逸れる。

 

とりあえず今日言われたことを忘れないようにと思ってざっくりメモしてるけど恥ずかしくて嫌になってきた。こんなんで社会に出て1年も経つなんて……私はダメダメなんじゃなかろうか……。人には人の成長スピードがあるわけだし仕方ないよね……いやでもなんかちょっと落ち込んできた……。

また明日も仕事だし今日はもう寝よう……。

容姿の劣等感

いま自分のなかに何重もの思いが渦巻いて騒がしいのはなんでだろう。そう思い返すと確実にきっかけはあった。祝日で暇だったからとなんとなしにアマプラで観た映画の「累」。漫画の実写化ということで原作も読んでもいないのに敬遠していたけれど、気付いたら引き込まれていた。土屋太鳳さんと芳根京子さんの美しさもさることながら、劣等感というものが自分に深々と刺さったのだ。女優さんが綺麗だから正直傷くらいと思ってしまった瞬間もあるけれど。

人間は視覚で得る情報が多いらしい。だから容姿に厳しいのかとたまに思うが、中でも子供というのは残酷なまでに敏感だ。可愛ければ学校でちやほやされるし、整っていなければサンドバックとして標的にされやすい。世の中には可愛くなくても性格の明るさで尊重される子もいるけれど、あれは本当にすごいと思う。普通ならあの境地にたどり着く前に性格が暗くなる。そもそも美醜で人を判断するのはナンセンスだが、その議論はいったん置いておきたい。実際に容貌で人間の待遇は変わってしまう社会なのだ。感じたことがない人はそのまま幸せな人生を送ってほしい。

おかげで私ははてなブログで心情を吐露するしかないほどに陰キャになった。きっと可愛かったらバッチリ決めた自撮りをインスタにあげて前髪決まらないぴえんなんて書いたり、友達と遊びに行くたびにストーリーによくわからん動画を載せられただろう。そして辛いことがあれば匂わせつつ誰かに連絡してお酒を飲みに行くのだ。

やぼったい奥二重に肉厚な頬。努力すれば可愛くなれるかもしれない。でもそれほどの気力もないどうしようもない人間なのだ。病は気からというように、自分を下げれば下げるほど実際の自分にも跳ね返るからあまり下げないように気をつけてはいるけれど、染み付いた考え方というのはどうにも自分について回ってしまう。だって小学生の時から気にしていた。絆創膏をアイプチの代わりにして二重にしようとしたり、痩せようといろんなダイエットも試してみた。ふみコミュやニコプチが私のバイブルだった。……いや、全然続いてなかったわ。とはいえ疲れてしまったのは事実である。どう工夫を凝らしても自分は橋本環奈ちゃんみたいな美少女にはなれない。いや、そもそも誰かが頑張ってなれる美少女なら美少女の希少性が減って美少女ではなくただの少女になるのだろうか?それは今はどうでもいいか。

結局自分は可愛くも美しくもなんともない一般市民Aにしかすぎないけれど、生きていくことはできる。それに歳を重ねると一周回って自分が愛おしくもなってくるものだ。少女漫画のように目の覚めるような恋愛はできなかったし、通りすがりの人に嘲笑されたかもしれないという被害妄想に取り憑かれたままだけれど、自分が自分という器に生まれたのは紛れもない現実なのだ。だからせめて自分のできる範囲でも自分を労ってあげたい。そう思ってそれなりの自分磨きはしている。足りないのは運動だろう。……やろう。

しかしぱっちりとした二重に小さい顔、無駄のない鼻にすっとした輪郭はどう足掻いても手に入れがたい。するとしたら整形か遺伝子ガチャのやり直しくらいか。整形もなんだかんだで元から整っている子がするから可愛くなるんだよなと思うとやるせない。最近は目鼻口が揃ってるだけでみんな可愛く見えてくる始末だ。いや本当に最近の日本人女性可愛くない?休みの日にお出かけして買い物する先々で待ち構えている店員さんがみんな可愛い。マスク文化を差し引いても可愛い。そしてそんな彼女たちと比べて可愛くない自分は馬鹿にされているんじゃないかと怖くなって買い物に行くのが億劫になる。ルミネに入っているようなお洋服屋さんで買い物したいけれど、店員さんとの関わりが怖くてもっぱらGUかユニクロで買い物をしている。ついにはデパコスのカウンターがあるフロアに近寄ることすらもしなくなった。しかし顔で判断されてるのではないかという恐怖は、自分も人を顔で判断している事実の裏返しに他ならないから恥ずかしい限りだ。

きっと顔に自信があれば性格も明るくなったし仕事の選択肢も広がったんじゃないかと思う節がある。就活では顔採用が囁かれるような会社が怖すぎて近寄りもしなかった。しかし最も問題なのはこうして顔に原因を帰結させようとする自分の性根なのだとわかっている。認めたくないけれど、どうしようもない自分は努力しない言い訳に生まれ持った顔を矢面に立たせているのだ。ごめんね、自分。

容姿に劣等感を持たなくて良い社会になったらどんなに素晴らしいだろう。だけど人は弱いから他者と比べて落ち込んでしまうものなのだ。容姿が比較対象じゃなくなったら、今度は別のところで落ち込むことになるだろう。見た目という上っ面の部分で済んでいるだけ、まだ良いのかもしれない。内面まで斬り込まれて努力できない不誠実さを指摘されたとしたら、今度こそ私は本当に立ち直れない気がする。でもでもだって。そう続けたいけれど、まともな反論は思いつきそうにない。どこで間違えたんだろう。みんなと同じ道徳の教科書で健全な精神を教えてもらったはずなのに。努力は尊いし正しい。だけどそれをできない自分の性質も尊重されたい。とても贅沢なわがままなのだろう。みんな違ってみんな良い。それならダメな自分を受け入れてくれる社会の土壌があってくれても良いじゃないか。

……ううん、別にできない自分でも良い。だけど人並み以上のお金を稼いで生きていきたいなら努力するしかないのだ。だって周りの人はみんな努力ができるのだから。しなくても良い世界はある。けれどしないといけない世界を選んで身を置いているのは自分だ。あーあ、現実見よ。

なにも出来ない自分の手慰み

今日は風が強い日だった。10分くらいしか外に出てないけれど。暖かくなってきたからとパーカー1枚で買い物に行ったらえらい目にあった。

ブログを作って最初の記事って何を書けば良いかわからない。ちょっと気取って天気のことを書いてみたけれど、職場のあまり仲良くない人からの挨拶のようで面白味もない。せっかくだから自分のこれまでの経緯を語るのが良いだろうか。

こうしてパソコンに向かって独り言を垂れ流そうと思ったのは、ひとえに消化しきれない自己愛をどうにかしたいと思ったからだ。自分には誇れるものがない。なにかしらの光る能力も、我慢強さも、努力を重ねる誠実さもない。こうやってブログを書き始めるのも何回目だろう。継続は力なりと過去の人は言ったけれど、たしかにその通りだ。続けることは本当に難しい。このブログだってこの記事だけで終わるかもしれないし、正直なところ人に読んでもらうほど面白い文章を書けるだけの引き出しがあるわけでもない。だけど文章を書いて自分の気持ちを己の腹の中に落とし込みたくなってしまった。そしてそれを誰かに知って、認めてもらいたかった。

だって気持ちの整理をつけるだけなら手元の綺麗なノートに書き連ねるだけでも十分なのに、わざわざブログにしてまで世界に向けて公開するのだ。自己顕示欲がなければそんなことをする理由がない。無いものねだりをする自分を身近な人に晒すのは躊躇われる。でも自分の外向きの顔を知らない人になら見られても恥ずかしくない。だからこそ遠くのどこかにいる誰かには自分の内面を知って認めて欲しい。私は特定の宗教への信仰心はないが、これはある種の告解に近いものかもしれない。

こうして自分の心の中を文章に書き連ねるのはとても気持ちが良い。胸の真ん中に渦巻くモヤが指先から溶け出していくようで、文字数を重ねるごとに憂鬱さが取り払われるのだ。たぶんこれは居酒屋で友人に愚痴をこぼすときの感覚に似ている。実際の自分は人に対して心の内を全部吐き出せるわけでもないから、匿名の仮面をかぶることのできるネットで文字を泳がすことにしているわけだけど。

別に信頼できる友人がいないわけではない。強がりに見えるかもしれないけれど、大切な友人や親身になってくれる恋人もいる。だけどひとりで自分自身に向き合うのが一番のように思えるのだ。きっと特別なことなんかじゃない。この記事の向こう側にいる誰かも同じだろう。

この自分の性質がいつから始まったものかはわからない。遺伝的なものかもしれないし、環境的なものなのかもしれない。遺伝であれば自分ではどうしようもできないが、環境だとしたらそれは確実に中学時代に形成されたものだと断言しよう。公立中学校というのは世間一般でも魔境だと揶揄されることが多々あるが、自分が通っていた中学校も例に漏れずそうだった。比較的良識のある人間が多い環境であったとは思うものの、それでも青年期の未成熟な正直さがゆえの言葉や行動に傷つけられる立場だった。この文章をここまで読めば言わずともわかると思うが、陽キャ陰キャかで言えば圧倒的に陰キャだし根暗だ。そして顔も可愛くない。不登校になって追い詰められるほどいじめられるということは無かったものの、スクールカーストで言えば下の下もいいとこ。常に誰かが自分を見て馬鹿にしているように思えていたし、自分に向けられた褒め言葉は直接貶すよりも傷つくからだと知っていた。

そんな自分が外に向けて怒りの言葉を叫ぶことなんてできるはずもなく、鬱屈した気持ちを心の中でため込むようになった。心の中にため込むためには言葉がいる。わけのわからない負の感情を乱雑にストックするよりも、自分の中で折り合いをつけた方がスッキリするからだ。ざっくり例えるなら、箪笥へ洗濯物を適当に投げ込むよりも、ちゃんと畳んで入れてあげた方がたくさん入るという理屈である。

幸いにもその頃の私は読書が趣味だった。本の虫だった両親の影響である。おかげで心の中にため込むための言葉の引き出しはそれなりにあった。その頃に読んだ本の内容はあまり覚えてないけれど、たぶんこうして書き連ねている文章にその名残があるのだと自分は思っている。こうやって思いを昇華する手段を得たわけだから悪いことでは無かったし、自分の糧にはなったと思う一方で、どうにもできない自己愛はこの手段によって育てられてしまったのかもしれないと感じることがたまにある。

良い外面で接していながら内心では唾を吐く。自分ではしているつもりがないのだけれど、振り返れば学生時代の自分は他人をどこか見下していたように感じる。なんにもできないのにね。高校生なんて今の自分が最強だと疑わない節があると思うから、自分に限った話ではないのかもしれない。

苦汁を舐めた中学時代。悔しさをバネにして高校にはそれなりに良いところへ入学することができた。優秀な友人や先輩に恵まれ、彼らのことを本当に尊敬していた。一方で尊敬できないと思う人へは内心で冷めた目をしていたと思う。なにもできない自分を認められないまま、優秀な周りの人間と自分を同一視してしまい、結果として根拠のない自己愛だけが育った。大学はそんな自己愛が邪魔をしてろくに友人も作らなかった。別に友達100人作りたいという性格でもないから、信頼できる人がひとりふたりいれば良い。ただ単純に、人脈というものを大切にしていたらどうなっていたかなとたまに夢想することがあるくらいだ。

いまの自分は日本のどこかにある会社でひいこら働くいち社員にすぎない。社会にでたばかりで大したことのできない無力さと、今まで自分が根拠なく信じていた理想像とのギャップに苦しんでいる。まともに努力もせずになんとなくで学生時代を乗り切ったせいだろう。大人になってからの苦労は学生時代に感じるものより苦しいだろうか、どうだろうか。そもそもいまの自分は人間が社会的に区切った分類の中では大人なだけで、本当に大人になれているかどうかすらも怪しいけれどそれはいったん置いておこう。わからないけれどせめていまの自分の苦しさがいつかの自分の糧になってほしい。そしてこの苦しみを適当に放置しないでちゃんと自分の中に落とし込んで未来に繋げよう。自分自身の種になるし、きっと自分みたいな誰かの参考にもなったら嬉しいと思う。

 

本当はこんな自戒じみた言葉を連ねる気はなかったのだけど、気付いたら妙なことを書き綴ってしまった。実を言うとかつてtwitterで見かけた呟きにはっとしてブログを書こうと思っただけなのだ。なんてことのない生活の記録も後世の生活・風俗的資料になるかもしれないという言葉。文学的素養のない自分でも何かしら残るものを書けるのではないかという淡い期待をしてしまった。心情を書き綴るのは好きだ。だから最近では二次創作をしたりして欲求を満たしていたのだけど、単純に妄想のネタが尽きた。だから次は自分を切り売りしてみようと思った次第だ。

次は何を書こうか。こうして記事を見返すと意外にネタになりそうなものはある。全ての原因を顔に帰結させる自分のクソみたいな性根や、これまで読んだ本で自分の思想の元になった部分。まああとは単純に生活をそれっぽく書くのもいいだろう。趣味のない自分の休日は本当に暇だから、土日祝は何かしらの文章が書けたらいいな。続けばの話だけど。