alpinum’s blog

根暗の掃き溜め

容姿の劣等感

いま自分のなかに何重もの思いが渦巻いて騒がしいのはなんでだろう。そう思い返すと確実にきっかけはあった。祝日で暇だったからとなんとなしにアマプラで観た映画の「累」。漫画の実写化ということで原作も読んでもいないのに敬遠していたけれど、気付いたら引き込まれていた。土屋太鳳さんと芳根京子さんの美しさもさることながら、劣等感というものが自分に深々と刺さったのだ。女優さんが綺麗だから正直傷くらいと思ってしまった瞬間もあるけれど。

人間は視覚で得る情報が多いらしい。だから容姿に厳しいのかとたまに思うが、中でも子供というのは残酷なまでに敏感だ。可愛ければ学校でちやほやされるし、整っていなければサンドバックとして標的にされやすい。世の中には可愛くなくても性格の明るさで尊重される子もいるけれど、あれは本当にすごいと思う。普通ならあの境地にたどり着く前に性格が暗くなる。そもそも美醜で人を判断するのはナンセンスだが、その議論はいったん置いておきたい。実際に容貌で人間の待遇は変わってしまう社会なのだ。感じたことがない人はそのまま幸せな人生を送ってほしい。

おかげで私ははてなブログで心情を吐露するしかないほどに陰キャになった。きっと可愛かったらバッチリ決めた自撮りをインスタにあげて前髪決まらないぴえんなんて書いたり、友達と遊びに行くたびにストーリーによくわからん動画を載せられただろう。そして辛いことがあれば匂わせつつ誰かに連絡してお酒を飲みに行くのだ。

やぼったい奥二重に肉厚な頬。努力すれば可愛くなれるかもしれない。でもそれほどの気力もないどうしようもない人間なのだ。病は気からというように、自分を下げれば下げるほど実際の自分にも跳ね返るからあまり下げないように気をつけてはいるけれど、染み付いた考え方というのはどうにも自分について回ってしまう。だって小学生の時から気にしていた。絆創膏をアイプチの代わりにして二重にしようとしたり、痩せようといろんなダイエットも試してみた。ふみコミュやニコプチが私のバイブルだった。……いや、全然続いてなかったわ。とはいえ疲れてしまったのは事実である。どう工夫を凝らしても自分は橋本環奈ちゃんみたいな美少女にはなれない。いや、そもそも誰かが頑張ってなれる美少女なら美少女の希少性が減って美少女ではなくただの少女になるのだろうか?それは今はどうでもいいか。

結局自分は可愛くも美しくもなんともない一般市民Aにしかすぎないけれど、生きていくことはできる。それに歳を重ねると一周回って自分が愛おしくもなってくるものだ。少女漫画のように目の覚めるような恋愛はできなかったし、通りすがりの人に嘲笑されたかもしれないという被害妄想に取り憑かれたままだけれど、自分が自分という器に生まれたのは紛れもない現実なのだ。だからせめて自分のできる範囲でも自分を労ってあげたい。そう思ってそれなりの自分磨きはしている。足りないのは運動だろう。……やろう。

しかしぱっちりとした二重に小さい顔、無駄のない鼻にすっとした輪郭はどう足掻いても手に入れがたい。するとしたら整形か遺伝子ガチャのやり直しくらいか。整形もなんだかんだで元から整っている子がするから可愛くなるんだよなと思うとやるせない。最近は目鼻口が揃ってるだけでみんな可愛く見えてくる始末だ。いや本当に最近の日本人女性可愛くない?休みの日にお出かけして買い物する先々で待ち構えている店員さんがみんな可愛い。マスク文化を差し引いても可愛い。そしてそんな彼女たちと比べて可愛くない自分は馬鹿にされているんじゃないかと怖くなって買い物に行くのが億劫になる。ルミネに入っているようなお洋服屋さんで買い物したいけれど、店員さんとの関わりが怖くてもっぱらGUかユニクロで買い物をしている。ついにはデパコスのカウンターがあるフロアに近寄ることすらもしなくなった。しかし顔で判断されてるのではないかという恐怖は、自分も人を顔で判断している事実の裏返しに他ならないから恥ずかしい限りだ。

きっと顔に自信があれば性格も明るくなったし仕事の選択肢も広がったんじゃないかと思う節がある。就活では顔採用が囁かれるような会社が怖すぎて近寄りもしなかった。しかし最も問題なのはこうして顔に原因を帰結させようとする自分の性根なのだとわかっている。認めたくないけれど、どうしようもない自分は努力しない言い訳に生まれ持った顔を矢面に立たせているのだ。ごめんね、自分。

容姿に劣等感を持たなくて良い社会になったらどんなに素晴らしいだろう。だけど人は弱いから他者と比べて落ち込んでしまうものなのだ。容姿が比較対象じゃなくなったら、今度は別のところで落ち込むことになるだろう。見た目という上っ面の部分で済んでいるだけ、まだ良いのかもしれない。内面まで斬り込まれて努力できない不誠実さを指摘されたとしたら、今度こそ私は本当に立ち直れない気がする。でもでもだって。そう続けたいけれど、まともな反論は思いつきそうにない。どこで間違えたんだろう。みんなと同じ道徳の教科書で健全な精神を教えてもらったはずなのに。努力は尊いし正しい。だけどそれをできない自分の性質も尊重されたい。とても贅沢なわがままなのだろう。みんな違ってみんな良い。それならダメな自分を受け入れてくれる社会の土壌があってくれても良いじゃないか。

……ううん、別にできない自分でも良い。だけど人並み以上のお金を稼いで生きていきたいなら努力するしかないのだ。だって周りの人はみんな努力ができるのだから。しなくても良い世界はある。けれどしないといけない世界を選んで身を置いているのは自分だ。あーあ、現実見よ。